今年は『空想科学読本』の刊行から25年。当時の僕は宝島社という出版社にいて、柳田理科雄は神奈川県で学習塾を営んでいた。
柳田とは鹿児島の中学時代からの友達で、お互い上京してからもしばしば飲む仲だったから、彼の学習塾にも何度か顔を出していた。経営状況がきわめて厳しくなっていることにも気づいていた。
そこで僕が柳田に提案したのが、『空想科学読本』という本を書くことだった。柳田とは、中学生の頃から「ゴジラは2万t、ガメラは80tって、体重が違いすぎるよね」などと笑い合っていた。そして、なぜそういう話題になったのかわからないのだが、就職したばかりの頃に飲んでいたとき、柳田が「宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルまで行くのに、100円ライターが何個あればよいか」の計算を始めたことがあった。飲み屋の箸袋に延々と数字を書く姿が強く印象に残っていた。
柳田に企画を話したのは初夏の頃。僕は「ゴジラやウルトラマンやヤマトに関する素朴な疑問を、高校で習った理科の知識を用いてまっすぐ考える本を出せば、5万部くらい売れるに違いない」と思っていた。年明け早々に刊行すれば、柳田にはそれなりの印税が入って、学習塾の経営も持ち直すのでは……と考えたのだ。だが、学習塾のことで頭がいっぱいの柳田は、あまりいい顔をしなかった。夏のあいだは夏期講習に忙殺されるということで、具体的な項目決めと執筆は9月からになった。原稿の遅れもあって(初の執筆なのだから、そう簡単に書けるはずがない)、本ができあがったのは2月も終わりの頃だった。
宝島社は「テスト販売」として、都内の書店10店で事前の販売を試みてくれて、それらの店では売る前に書店員が買ってしまう……などの珍事もあって、正式な発売日を待たずに重版が決まった。3月に入るとテレビの情報番組でも紹介され、そのうち週刊誌などでも続々と紹介されるようになった。柳田へのインタビューも相次いだ。宝島社は新聞広告を連発し、『空想科学読本』は着実に部数を伸ばしていった。1年ほどで60万部も売れた。
だが、僕や柳田が「これは数十万部のベストセラーになりそうだ…!」と実感できたのはだいぶ経ってからで、柳田の学習塾が4月以降も営業を続けるかどうかは、もっと早く判断するしかない。結局、ヒットの兆しを感じ始めたあたりで、学習塾は閉鎖となった。
こうして「学習塾の存続」という最初の目的は実現できずに終わった。だが、塾経営と入れ替わるように柳田の仕事となった本の執筆が、彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。その結果、とてもたくさんの子どもたちに「理科は面白い」と伝えることができたのも確かである。25年前、僕は柳田に学習塾を続けさせたいと思っていて、それを実現できずに悔しい思いをしたのだが、それは塾経営と『空想科学読本』はまるで違うと思っていたから。いま振り返れば「ある意味、同じだったのだなあ」としみじみ感じている。